NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

契機

いつものように夢を見る.
  ここにいる俺は本当の俺ではないのかもしれない,つま り,睡眠薬や鎮静剤を飲まされて,この世界でおとなしくしている自分,その中のもう一人の自分は,あたり一面砂漠の戦地にいる.
  彼は何と戦っているのだろう.分からない.彼は何年も砂漠に,戦車に踏みつけられないように,機関銃にやられないように,縦に穴を掘ってそのなかに太陽の照りつける中,迷彩服にヘルメット,顔は黒く塗り,機関銃を構えてずっといる.味方の戦車が,通ったような記憶はある.
  彼と同じようにしている人が何人もいるようだが,話しをしたことや合図を送った記憶はない.

 この世にいる俺は,おそらく,本当に断片的にしか記憶がないのだから,もしかしたら違っているかもしれないが,真っ白い病院のような所にいてベッドに寝かされていて,手足は縛られているのかもしれない.黒い紐のようなものが目の前に見える.
  周りにはたくさんの白衣を着た人がいる.俺の顔をのぞきこんで何か話しこんでいるみたいだ.眼鏡をかけたえらそぶった中年のおじさんがいる.その人が担当医みたいだ.
  一体俺は何があってここにいるんだろう.記憶が本当にない.

 突然昔の記憶が浮かんできた.小学校の頃,ある女の子を好きになった.彼女の家はマンションだった.そのマンションには俺の友人も住んでいた.彼も彼女のことが好きだったと思う.
  ある日,俺達は何を思ったのか,彼女のマンションにバケツにいっぱいの砂を入れて持っていった.そして,彼女の家のインターホンを押して,彼女の天使のような声が聞けるのを楽しみにしていた.ところが,インターホン越しに出てきたのは母親で,玄関のドアを開けて開口一番,「あなた達何をしているの,そんなもの捨ててらっしゃい.迷惑でしょ.」
  僕達は,彼女が出てきて,彼女が驚いてくれるだけで,そして,困ったような顔をしてくれるのを期待していたのに,何もかも失敗に終わって,学校にまで連絡が行って,先生にまで怒られた,というものだった.

 砂漠にいる彼は目がさえてはいたが,本当に敵が何か,そして目的が何か忘れてしまっていた.でも,彼はこの何かとてつもないであろう任務を全うするために,ただひたすら縦穴の中で,前方を見据え,見知らぬ敵が現れるのを待っていようと思っていた.
  彼は一睡もしていなかった.というより一睡もしなくてもよかった.彼の世界では眠りという概念はないようだ.ただ,彼は眠るという感触は知っているし,いつかどこかで自分はずっと眠り続けていた,という記憶はあった.

 俺がここに来たのはいつだろう.思い出せない.夢の中では,記憶なくも目的もわからず,ただひたすら前を見続けているだけだし,今現実にいる病院らしい中では,身体を動かすと鎮静剤の注射を打たれて,その痛みを感じる間もなく眠りについてしまって記憶らしい記憶もない.
  でも,昔の記憶だけは,時折急に出てくる.それは,確かに本当にあったことだという確信はあった.見てきた中で,俺がサラリーマンとして働いていたという記憶があった.だから,おそらく俺は大人であって,企業戦士として働いていたことがあるのだろう.
  だが,夢の中で出てくる兵士という自分にはまったく覚えがなく,果たして彼は何者だろうという疑念はいつも持っている.
  彼は一体何と戦っているのか,そして,彼と俺の関係はどういったものなのか.

 また眠くなってきた.眠るとあの戦いに向かわなければならない.そうなると,俺は本当に眠っているのか,それとも,実は俺という意識はずっと起きているのか.
  このような状態を一体いつから,そしていつまで繰り返していくのだろう.わからない.まったく見当もつかない.
  ただ分かるのは,今,俺が,時折ふと思い出す普通の生活を取り戻す術はないし,そうしようとすら思えなくなってきたことだ.夢の中の戦場にいる俺と同じような奴らがいたが,彼らもそうなのだろうか.
  今度勇気を出して話しかけてみようか.何かしら,新しい事実がわかるかもしれない.そんな現在の状況を変える勇気が俺にはあるのだろうか.変える必要はあるのか.
  わからない.

ユンゲスト