NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

自分で自分が何であるかを決めた頃 - 14

 山崎博明君が死んだ『第一次羽田闘争』や,全共闘運動の中で『裁かれる立場』を選ぼうとしたとき,もう一度私の中に『壁』が登場しました.そのときの『壁』の意味はひょっとして資本主義か社会主義かの,思想的・政治的選択であったのかも知れません.仮に,そう言う選択であったとしても,1970年代の前半にはすでに,新左翼の運動は壊滅状態になっていましたし,少なくとも1989年には『ベルリンの壁』もなくなり,『壁』を思想的立場の象徴とは考えにくくなっています.

 しかし,その後の私の人生の経過から見れば,そんな思想的・政治的選択ではなくて,単に『抑圧し,差別する』側に付くのではなく,その反対側にいる人たちと一緒に生きていこうとする,生き方の選択であったような気がします.

 今,私は『壁』を破ったのか?『壁』の向こう側にいるのか,こちら側にいるのか,自分では分かりません.しかし,今でも私の眼の前には『壁』が見えます.それは引きこもりの若者が築く『心のバリケード』のように<幻視>の『壁』です.引きこもりの若い人が心の中に築いている『壁』を私が共有しているとは申しません.ただ,そのような『壁』は,結局は自分の生きざまによって乗り越えて行くしかありませんし,乗り越えたところで『壁』は消滅するのではなく,壁の向こう側に出るだけなのです.その点は共通していると思います.

 私は結局このまま『壁』に向かい合いながら,これからも生きていくことになるのでしょう.

 話は少し遡ります.京都大学の全共闘運動が燃え上がった1969年の2月,バリケードストライキ中の教養部構内,全共闘機関紙の編集室に一人の若い女性が現れました.『お手伝いをさせてください』と言います.文学部1回生の19歳の女性でした.「いたいけな」というか「可憐な」と言って良いのか?少なくとも過激派の巣窟のような場所には相応しくなく,何だか突如として妖精が舞い降りたような感じでした.いずれにしても,彼女はそれから私たちグループの中でマドンナ的な存在として振舞いつづけました.

 その頃の私は依怙地なほどに自分の生きざま探しに熱中しており,つまりは自分が何であるのかまだ分かっていなかったので,他人に強い関心を持つゆとりがありませんでした.彼女を『恋愛』の対象として考えるゆとりがなかったということです.

 それから私の逮捕事件があり,私自身は『自分が何であるのか』の選択肢を次第に絞り込んでいくことになります.1972年の3月,彼女は文学部心理学科を卒業します.私は自分自身の卒業はほとんど放棄していましたが,彼女の卒業のためにレポートを代筆したりしました.私の大学除籍が決定したのは1972年の9月です.その翌月10月21日,彼女と私は友人や家族の祝福を受け,京大楽友会館で結婚披露宴を行ないました.
  祝福を受けたといっても,そこまでには紆余曲折がありました.大学中退を決めこんでいて,裁判を受けている男との結婚を素直に認める親などおりません.彼女の親や親戚が猛反対をしたのは当然です.結局,彼女と私の結婚は,彼女自身が選び取った道であり,私が『自分が何であるかを決める』ために,彼女の決断が大きな力を与えてくれました.

 もうじき結婚30年目を迎えます.初めて出会ってからは33年経ちます.『妖精が舞い降りた』などと書きました.『恥ずかしいことを書かないで!』と叱られるに決まっています.でも,これは私の主観ですから,別に恥ずかしくはありません.しかも33年も経てば『妖精』も多少は歳を取ります.妻への感謝や,詫びなど書かなければならないことはたくさんあります.でもそれは例によって全部省略します.
  妻は今もニュースタート事務局の活動いっしょに支えてくれる同志です.

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ありがとうございました.
2002.9.27
にしじま あきら