NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

自分で自分が何であるかを決めた頃 - 10

 手探りで書いてきたのですが,タイトルである『自分で自分が何であるかを決めた頃』という主題が出てきてしまいました.そろそろこの文章の終わり方を考えなければなりません.たしかに1967年の10月8日は一つの転機でした.
  しかし,一つの曲がり角を曲がったからと言って,その先に一本道が続いていると言うほど人生は,単純で単調なものではありません.それに,この年私はまだ大学の4回生であり,まだまだ大学を『中退』するほどの決意をしていたわけではありません.ただ『事件』の一報を聞いて学生新聞の『号外』を出しただけなのです.

 しかし『号外』を出した気持ちの高ぶりは,そのまま落ち着いて卒業を待つ気持ちにはなかなか戻りません.私たち学生は山崎君の死因を機動隊による『虐殺』と主張し,警察は『学生たちが装甲車を動かして轢殺〔れきさつ〕した』と主張しました.京大での糾弾〔きゅうだん〕集会は,山崎君の遺体が安置されている慶応大学病院に代表を派遣して,死因の究明を迫ることを決議していました.私はその代表ではありませんが,京都大学新聞の記者として代表に同行して慶応病院に詰めました.結局死因は明らかになりませんでしたが,轢殺と警棒などによる殴打死とでは遺体の状況は明らかに違うはずです.
  学生側と国家権力側のどちらに真相を隠蔽する力があったのかを考えれば,真実は容易に推測できました.

 そんなこんなで走り回っているとき,就職が内定していたはずの外資系石油会社から『内定取り消し』の通知が届きました.取り消しの理由など書いてありませんでしたが,それはもうどうでも良いことでした.国家権力に逆らうような学生運動に与〔くみ〕していることなのか,興信所が調査した釜が崎の実家の家庭環境なのか,おそらくその両方が報告されて,その外資系石油会社は賢明にも『城壁』の外側の人間の入域を拒否したのです.

 もちろん,一旦は卒業を決意して就職するつもりでいたのですが,1967年10月8日の第一次羽田闘争を契機として盛り上がった日本の学生運動と,当時の世界で起こり始めていたアメリカの黒人運動やベトナム反戦運動,ヨーロッパの学生運動や中国の文化大革命,そうしたあらゆる反体制運動のうねりが私に『就職は後回し』にして,『もう少しこの<熱気>の歴史的現場に立ち会っていることにしよう』と思わせるようになっていました.当然,翌年の卒業機会はあっけなく棒に振りました.

 1968年になると,日大や東大のいわゆる全共闘運動が火を吹き始めます.それはこれまでの政治的党派が主導した学生運動とは明らかに違っていました.特に『右翼的な大学』と思われていた日本大学での『使途不明金』問題追及の盛り上がりは,学生大衆を巻き込み不正告発の社会運動としての発展をみせました.それまでは,どちらかと言うとエリート系大学学生主導の『革命』のための学生運動でした.私自身は,そうした学生運動の中枢にいたわけではなく,いわゆる『ノンポリ』とか『ノンセクト』といわれるシンパサイザーに過ぎませんでした.6全協とか60年安保闘争の方針をめぐって,日本共産党とたもとを分かった人たちが結成した共産主義者同盟やその学生組織・社会主義学生同盟(通称・社学同)には友人も多く,私も思想的に共鳴していたのですが,私は最後までそうした組織の同盟員にはなりませんでした.

 全共闘運動はある意味で歴史的必然のように京都大学にも飛び火しました.1969年,バリケードストライキが敷かれた京都大学教養部で,私はいつのまにか当然のように,教養部長室を占拠し,そこを京都大学全学共闘会議機関紙編集室として私自身が編集長を自認するようになっていました.別に誰かに任命されたわけでも頼まれたわけでもないのに,ある意味で京都大学新聞の≪主幹≫だったという経験が新聞編集の専門家として,社学同や中核派やその他の学生運動諸党派も含めて認めさせてしまったようです.あるいは,学生運動諸党派にとっては足もとの大学で巻き起こったある種アナーキーでやくざな全共闘運動などには構っているひまがなかったのかも知れません.またそのような野放図さや,何かをやろうとするものに任せるというのがそれまでの自治会型の学生運動との違いでした.
2002.9.24
にしじま あきら