NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

自分で自分が何であるかを決めた頃 - 9

 就職も内定し,卒業までの期間も半年を切り,私は無事に社会人になろうとしていました.学生新聞の編集者としてそれなりに『革命』についての議論もしましたが,中学卒業のときに友人から受け取った『卑怯者』のレッテル通りに,私は『城壁』を乗り越え,ブルジョアジー
の仲間入りをするはずでした.
  後に松任谷由美が作詞・作曲した「『いちご白書』をもう一度」の二番の歌詞は
   ぼくは不精鬚と髪を伸ばして 学生集会へもときどき出かけた
   就職が決まって 髪を切ってきたとき
   もう若くないさと 君に言い訳したね
と歌っています.
  その当時の学生運動参加者のほとんどはそんな風に,大学を卒業するとともに運動からも足を洗い,長髪を切って,スーツに身を包むのが一般的でした.

 京都・百万遍の喫茶店でそのニュースを聞いたのは1967年の10月8日でした.その日,佐藤首相の南ベトナム訪問阻止のために羽田空港周辺に集まった学生に機動隊が襲いかかり,この衝突で京大生の山崎博昭君が死亡したという第一報でした.私は反射的に立ち上がり,喫茶店を飛び出すと,キャンパス内の学生新聞のサークルボックスに飛んで帰りました.当時の学生新聞は3回生が編集責任を負う幹事会を構成しており,4回生の私は引退したOBの立場でしたが,居合せた後輩たちに『号外を出す』と宣言し,幾つかの指示を出すと大阪に向いました.


学生新聞は大阪の印刷所で印刷していました.私は印刷所で原稿を書き,後で指示をした後輩が届けてきた山崎君の顔写真を黒枠で囲い,『京大生山崎君虐殺される』の見出しをつけました.タブロイド版片面の京都大学新聞号外は翌日キャンパスで撒〔ま〕かれました.学内では山崎君の追悼集会と大学当局相手の死因追及と糾弾の集会が始まっていました.こうした事件で学生新聞の号外が出されたのは後にも先にもこれ1回だったろうと思います.

 このときの山崎くんが死亡したデモはのちに『第一次羽田闘争』と呼ばれ,学生運動の高揚と過激化の転機になった闘争でした.私自身は,就職が決まっており,それまでの学生運動の限界も感じていて,デモや『○○○突入闘争』の類〔たぐい〕には距離を置いていました.しかし,釜が崎で育ち,貧困と言うものの辛さを骨身に沁みて感じていた私は,学生運動と言うよりも社会運動や革命の必要性には無関心でいられませんでした.そんな持ち合わせの『血』が山崎君の死を聞いて,のっぴきならない選択を自分に迫ったようでした.

 この山崎君が死んだ1967年という年はアメリカではベトナム反戦運動の盛り上がり,中国では紅衛兵運動が,そして翌68年にはフランスの『5月危機』と世界中のスチューデントパワーが盛り上がる機運にありました.ベトナム戦争で見せつけられる資本主義の暴力.抑圧された人々の抵抗パワー,学生たちの正義感はそれを見捨てることができずに燃え上がりました.そして日大闘争や東大闘争を経て全国的な全共闘運動の嵐が吹き荒れて行きます.私は偶発的な第一次羽田闘争に巻きこまれて行ったと言うよりも,こうした時代の予兆に背を向けることができず,『自分で自分が何であるかを決める』道に踏み込んで行ったようです.
2002.9.21
にしじま あきら