NPO法人ニュースタート事務局関西

VOICE

自分で自分が何であるかを決めた頃 - 3

小学校三年の一学期以来,学校というところと無縁の生活をしていた私は突然,中学生として学校に通うことになりました.中学での勉強についていけるかどうかという大きな不安があった一方で,≪学校に通える身分≫になったことがまるで雲に乗ったようなふわふわとした不思議な気分であるとともに,思いもかけない大きな喜びでした.小学校から中学に進学するのは,義務教育の制度の中で普通の人にとっては,ごく当たり前の進級に過ぎず,新しい環境の学校に通うという,多少の緊張感はあるでしょうが,私が当時噛み締めていた至福のよ うな感情は理解していただけないだろうと思います.

9歳から13歳くらいまでの4年間,しかも釜が崎という日本最大のスラムでの生活は私の気持ち,大げさに言えば精神史に大きな傷跡を残しました.敢えて『引きこもり』になぞらえて言うなら,4年の間もう決してここ(釜が崎) での生活から抜け出せないのではないかという絶望的な感情との闘いでした. ただ,私はその間いちども本当に『絶望』したことはなく,「いつかはこの境 遇から抜け出してやる!」と考えていました.


苦労話や貧乏話というのは,そこから抜け出してしまった人にはある種の自慢話になるので私は抑制しなければならないと思っています.ただ私の『絶望感』との闘いは,その後の私の思想形成に影響を与えていますので,当時の私の考え方を少しだけ聞いてください.

釜が崎に落ち延びて来て,やがてある木賃宿に定住することになりますが,当時の私の父親も,ある種の引きこもりのように無気力で,まったく仕事をしようとしませんでした.もちろん病弱でもあったのですが,それ以前に波乱万丈の半生を送っており,上昇志向につまずいた引きこもりのように一切の努力を放棄して,放埓な暮らしに明け暮れていました.当時の父親はまだ40歳前で,世間から見れば働き盛りの年配であり,しかも,病弱とは言え体格はよく,弁舌も立つ人だったのでまったく不思議な存在であったようです.もちろん,今の若者たちの『社会的引きこもり』と安易に混同するつもりはありませんが,引きこもりの親たちがわが子の引きこもりを単なる怠惰と考えたり,精神 病を疑ったりするようには、私は父親のことを見ていず,いつかはきっと立ち直って社会に参加してくれると考えていました.当時の母も父親のことをそう考えていたと思います.

夜逃げを繰り返していた時期に,飛田本通りというところにあった安宿の一室で私はある夜中に目覚めると,父と母が私たちを殺して一家心中を企てようとしているのを知りました. 私は弟妹たちをたたき起こして,父と母に『ぼく達は生きたい.たとえ貧乏でも学校に行けなくても構わないから生きたい!』と泣いて主張しました.


そんなことがあったので,釜が崎に定住してからは,私も必死で働きました.わずか10歳程度の年齢ですから,一人前の仕事ができる歳ではありません.アルバイトというのは日本語では,何か本来やるべきことを持っている人が副業的に働くことを言います.ですから,その頃の私はアルバイトとしてではなく,まさに一家の生活を支えるために働きました.でもそれはあまりにも幼い仕事振りだったと思います.尤も,昔のことを考えればこの程度の年齢で『丁稚奉公』 に出されるのは当たり前でしたし,あの『おしん』というドラマを思い出していただいても特別なことではあり
ませんでした.


私はこの時期に,屑屋さんの荷車の後押しのような力仕事から,あまり世間に大っぴらに吹聴できないような仕事まで,さまざまな仕事につきました.と言ってもわずか数年のことですから,青年期に多彩なアルバイト体験をした人に比べればたいした
ことはないのかも知れません.この体験の詳細も思いきって割愛します.
ただ,10歳程度から三年間の労働体験は,私をいたいけな少年から狡猾な中年男のように,世間の裏表に精通した苦労人のような心境にさ せてしまったのは事実です.
まだわずか12歳でした.
2002.9.14
にしじま あきら