NPO法人ニュースタート事務局関西

直言曲言(代表コラム)

循環型社会と人間

 地球はかけがえのない星である.少なくとも,この太陽系にあって人間が生存できる唯一の星であり,宇宙においても地球以外に知的生命体が実在する可能性が示されたことはない.おそらくこの先,何世紀もの時間が過ぎ科学技術が発達したとしても,月や宇宙空間には一定の数の人間が一定期間居住することはできるだろうが,何十億という人類が繁殖し,安寧を貪ることのできる星に出会うことはないだろう.

 その地球という星を,われわれ人間は汚しつづけてきた.しかも,人類の歴史が始まって以来,20世紀という過去の百年ほど,地球を破滅にあるいは人類が居住することができない状態に近づけた百年はなかった.
  人類はおそらく地球上に棲む生物の中の最も優勢な種のひとつであろう.しかし,人類の先祖が地球上に足跡を印したとされる200万年の昔から,長らく人類は地球のあらゆる恩恵に浴してきたであろうが,その間に人類が地球を傷つけたとしても何ほどのことはなかった.ヨーロッパ人がアメリカ大陸を《発見》したのも,たかだか500年程度のごく最近のことである.

 しかし,大航海時代から産業革命を経て現代まで,人間は地球上のあらゆる地域を探検し,開拓し,荒廃させてきた.わずか5世紀の間に冒険家たちは五大陸の最高峰を極め,探検家たちはアフリカやアジアの奥地に至り,熱帯雨林は切り拓かれ,巨大なダムが築かれた.海浜が埋められ,深海の油田は掘削され,砂漠では核爆発が行われ,上空には人工衛星が飛んでいる.石油化学物質の合成は,人類にあくなき欲望の時代を開いた.その結果,地球環境は汚染の一途をたどり,温暖化など後戻りの出来ない破滅への道をたどっている.その極端な破壊のスピードが加速されたのがこの過去百年であった.

 2000年6月『循環型社会形成推進基本法』が公布された.この法律は,簡単に言うと『天然資源の消費を抑制し,環境への負荷ができる限り低減される社会』を目指すことにある.そのために『国,地方公共団体,事業者及び国民の責務』を明示しようとしている.また『再使用,再生利用』などによる資源の『循環利用』によって,従来のいわゆる『廃棄物』だけでなく,『熱(エネルギー)』の回収再利用まで含めた『循環型社会』を形成しようとしている.

 この『循環型社会形成推進基本法』という法律は,これまでの《大量生産,大量消費,大量廃棄》という,つまり『使い捨て』の《経済社会システム》を反省し,『循環型社会』に転換させようというものであるから,高く評価して良いだろう.ただし,いわゆる廃棄物だけでなく『熱回収』にまでその範囲を広げていながら,『水資源』の『循環利用』について一言も触れていないのは,この法律が『環境省』の所管であるからであり,いくら水資源問題が建設省(現在の国土交通省)の所管だからといって,納得のいかない扱い方である.

 さまざまな《廃棄物》というものは,それが産業廃棄物であれ,一般廃棄物(家庭から排出されるごみなど)であれ,人々の生産と消費の過程で発生するものであり,人々の生産と消費の《あくなき欲望》が廃棄を無限拡大してきた.地球上の水資源は,海上や陸地からの蒸発と降雨という自然の《大循環》により,基本的な循環が支えられていて,地球上に存在する大部分の水に対する人間の関与するところはわずかであると考えられがちである.
  しかし,地球上にある水資源のうち,河川水や地下水など人間が活用可能な水は限られており,こうした水を人類はおそらく今後百年程度の間に使い尽くすか,使えないほどに汚染させてしまうのではないかと心配されている.環境には優しい産業と思われがちな農業でさえ,《あくなき欲望》の前では,自然条件を無視した開墾や大規模な灌漑工事によって水資源を枯渇に向かわせてしまうのである.

 現に,中国の黄河などの大河川が下流で枯れてしまったり,大湖水の消滅,熱帯雨林の減少,砂漠化現象などが地球上のあちこちで起きている.世界中の大都市では,日本などでは大都市に限らずだが,路面や生活空間の舗装化により雨水は地中に浸透せず,下水道や河川を経由して海に直行し,代わって地下水の汲み上げにより地盤は沈下し,利用できる地下水は枯渇しつつある.
  いずれにしても,こうした人間にとって有用な資源の《有限性》に気づいて『循環型社会』を目指そうとすることは,如何に『地球の荒廃』が目立つ今日になったとは言え,<遅きに失する>とは言えない.一日でも早い方が良いのであって,私たち一人一人の人間が,生産者であれ消費者であれ,心がけるべき重要な課題である.

 ところでいつものことだが,私流のオチがある.使い捨てにされてきたのは,石油製品や自動車や家電や農産物だけではない.

 20世紀は『人間』が使い捨てに去れた時代ではなかったか?

 20世紀の前半から中盤にかけては『戦争の世紀』と言われた.《戦争》とはまさに人間を使い捨てにする政治の産物である.20世紀の中盤以降は具体的な戦争は局地戦に限られたが,《冷戦》という名の産業戦争が世界的に展開された.《企業戦士》という兵士の生産競争が勝敗を分けたと言って良い.私たちは今,勝った側にいるのか,負けた側にいるのか,それは分からないが,この産業戦争に参戦したことは確かであり,私たちもまた大量の兵士を生産しようとしていたことは間違いのない事実である.

  それは《大学》を含むさまざまな《学校》で生産されようとした.工業製品の多くが《金型》というステロタイプに鋳込められて出来あがるように,いくつもの検査工程を経て,世の中に送り出されようとした.《金型》そのものの優劣も問われたが,《金型》になじまないものや,不適応品は検査工程ですべて排除され,不良品として廃棄されようとしたのではないか?

 しかもその<検査>の工程は,人生のごく初期から始められ,振り分けられ,「不良品」や「粗悪物」あるいは「優良品」「極上品」などを仕分けされる,非人間的な選別・廃棄システムであったのではないか.
  言うまでもなく,これは受験競争や,それが10代という人間が最も輝いているべき時代に課せられた過酷な運命であったことを比喩している.ただ,受験競争という選別システムそのものを非難しても空しいことである.その選別システムに我が子達を喜んで追いやったのが,他ならないあなたたちであったことを忘れてはいけない.

 選別システムにより<排除された者たちは幸いである>.それは兵士としては失格であったかも知れないが,人間としてはむしろ優れた特性を失わずに済んでいるからである.

 循環型社会とは,青年期の兵士適性だけで人間を選別し,廃棄物のように使い捨てにしないで,再生=ニュースタートを支えて行く社会ではないのか?
(6月26日)