NPO法人ニュースタート事務局関西

書籍案内・書評

『私がひきこもった理由』田辺 裕(取材・文) ブックマン社編

 この文章を読むことになる人ってどんなひとだ? 当事者? 親? まあ何らかの関係がある人でしょうな,ひきこもりってやつと.

 ひきこもりですよひきこもり.最近は定着してきた感のあるこのことば,しかし,わたしがひとり暗いクラーイ部屋で放心していたときはなかったですよ,こんなことばは.ほんとありがたいですね,名前ってもんは.たとえそれがレッテルに過ぎなくても,自分が何らかのかたちで社会に存在してるということの最後の証になってくれますからね.

 まあ,自分の話からはじめるのもなんだけど,この本を読むということはわたしにとっちゃあ自分の再発見ってとこですね.ひきこもっているひと(だいたいひきこもりからあがりかけたひとが多いけど)のインタヴュー集なんだけど,ああ,ここにも自分の分身が,そこにも,あそこにも,といった具合に,かつての,そして今の自分を紡いでいる糸のようなものが,ぽろぽろと綻んできちゃうよね.これを読むとね.どうしても似てしまってるんだよね,経験がね.

 痛い,それはとても痛いんだ,思い出すことは.傷,塞いだ気になっていたあたしの心の傷,トラウマ,思い出したくない暗黒の日々,経験,それらがふつふつと,沸きあがって来るんだ,思い出されてしまうんだ.
  それでもって,ああ,自分もまだまだ弱い,強くなりきれてない,と再確認する.

 この本に出てくるひとたちってのは皆一様に,親との関係に,そして学校における自分の存在のしかたに,疑問を抱き,居心地を悪く感じ,実際ひととの関係性を破綻させていく.どんどん自分の居場所を狭めていく.自分で自分を追い詰めてる.
  いまの社会におけるワカモノの居場所というか,自分の存在,ヨノナカとの関係性を見出せる場所=家庭と学校.それだけ.ミヤダイシンジのいう学校化社会ってやつかね.学校においての存在が,ニンゲンにとっての全存在である.そう思いこんじゃうんだよね,なんだかね.自分もそう思いこんじゃってたね.確かに.

 今考えるとばかばかしいんだ.狭いんだよね,考えることがね.甘ちゃんなんだよね,単なる世間知らずなんだよね.

 あたしがひきこもっていたとき(というか,ひきこもりがちな思想体系を築いていたとき)なんてもそうだけど,本当に視野が狭かった.半径数メートルの狭いせまい価値観を抱いて,自分で自分をだめな,生きる価値のないやつだと規定していた.そしてそれがすべて,世界のすべてだと思ってた.

 そしてそのくだらない世界に生き続けていかねばならないということに,失望してた.

 ヨノナカなんて広いのにね.地球だけでも一生かかっても出会いきれない人たちが住んでいて,そしてその人たちがそれぞれぜんぜん別の世界観を持ち,一朝一夕じゃ語りきれないような長さの人生を歩んでいるのにね.自分の卑近にたまたま存在していた世界を世界のすべてだと思って,失望することって,もしくは,自分の世界観,自分が選択して構築している価値観がすべてだと思うことって,一体なんだ?なんなんだ?

 なんで自分を苦しめるような世界を,自分で決めちゃうんだ? 
  自分で自分の居場所を規定してしまう,そして,それは自分にとってとても苦しい世界である,そんな馬鹿なことってあるかい? 自分で自分の首を締めることだ,それは.

 実際リストカットとかしちゃってるひと多いし(自分もその衝動わかるけどね),死んじゃう人も多いよね.あたしの友達も死んだ.去年の秋,自分の部屋で,首つって.

 あたしは,自分が死んだ,と思った.そいつの訃報を聞いたとき,自分の代わりに,自分より先に,そいつが死んだ,と思った.ああ,死ぬのはあたしだったのに,なぜだ? 何故?って.
  そう思いつづけて,半年が過ぎてた.

 非常にばかばかしい考え.でも,本気でそう思ってた.

 いまだって死にたくなることはたくさんある.自分が,誰にも求められてない,必要とされてないように感じて,もうからっぽで.すっからかんで.そんなときに,
  何であたしは生きてるんだって.

 しかし,あたしは決めたんだ.あたしは生きると.

 あたしは意志薄弱で,何一つ人生で決めたこと,自分で選択したことなんてないけれど,流れに流されて生きてる葦のような根無し根性のやつだけど,これだけは決めたんだ.
  これだけは最初に決めないとだめだ,と思ったんだ.まず,生きるって.

 だって,あたしは,生きてるんだもの.

 生きないことには何もかも始まらないじゃない? たとえ苦しいことや痛いことしかあたしの身に襲ってこないとしてもさ.生きていないことには,経験し得なかったんだ.それらは.

 苦しすぎるから死ぬっていうのもありだとは思う.死ねばもう苦しむことはなくなるから.あまりにも苦しい人生を送っている人に,死んではならない,耐えろ,頑張れ,なんていうのは,拷問でしかない.死にたきゃ死ねばいい.

 でも,それは本当に本人が望んでるのか?と思うんだ.
自殺を,自分から本当に望んでるやつなんて,いるのか?と.

 生きたいから,死のうとするんじゃないのか? 
  いまよりよく生きたい,ましな人生を生きてみたかった,と思うからこそ,死にたくなるんじゃないのか?

 あたしに関していえば(自分のはなししかすることがないので申し訳ない),あたしは今生き長らえていられることに感謝してる.小さいころから生きてることを肯定できずにいて,ことあるごとに死にたい死にたいと思いつづけてきたけど,近頃のあたしは,生きることっていうのも,まんざらではない,そんな気分で毎日を過ごしてる.生きてりゃそれなりに,それなりのことがある,そんな感じで,気張らない日々をだらだらと生きてる.

 自分は特別にすごいやつじゃないし,なにも人から尊敬されるようなすごいことができるわけじゃない.そう気づいたときに,あたしは生きていけるようになった.
  その瞬間にあたしは生きはじめたのだと思う.だって,それ以前のあたしは,なにか,人をあっといわせるようなすごくてかっこいいやつ(勉強面、外見面、社交関係面と)でなければ生きていく資格はないように感じてたんだ.そして実際の,頭もよくない,美人でもない,人付き合い上手でクラスの人気者なわけでもない自分が,許せなかった.そして自分がこうでなくてはならない,といったかっこいいイメージを作り上げて、それに自分を合わせようとするような,生き方をしてた.

 いわば,架空のいのちを,生きていたんだ.
  存在しない,まるで絵空事の世界を夢見て.

 引きこもっている君たちへ.
  いま,君たちの置かれている状況は,しんどくて,苦しくて,暗黒の毎日を過ごしているように感じているかもしれない.
  でも,君たちの居場所は,君のいま閉じこもっているところだけではない.

 必ず君の身に合った,君にとって居心地の良い,君だけの場所…それは本当に物質的な場所であったり,仲間であったり,恋人であったりするかもしれないが…が,この世界中,広い広い地球上のどこかを探せば,あるはずだ.
  そこがどこかは,誰も教えてくれないし,本当にあるかどうかもわからない.

 しかし君にはそこを探し出す義務がある.
  なぜなら君は生まれてしまったから.

 生まれた以上、生きなくてはならないと,あたしは思う.
  あたしからすると,引きこもっている状態というのは人生を生きていないと思うんだ.
  生きる喜びを知らずに,「生きることは苦しみである」として,この世を去られてしまうのは,いまこちら側で生きているあたしにとっちゃ困ったことなんだ.
  あたしも君と同じ世界を生きているわけだし.君がヨノナカを否定するということは,あたしにとってのこのヨノナカを否定されることになってしまうのだよ.

コシオ